ユーロクリア依存症
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/06 13:24 UTC 版)
「マーケットメイク」の記事における「ユーロクリア依存症」の解説
しかしアメリカのマーケットメーカーが全米の資金をにわかに多国籍企業へ集中させると、アメリカン証券取引所で不正事件が起こったので、感づいたジョン・F・ケネディがマーケットメーカーに大義なしと思い切って行動した。彼が大統領となった1961年から、証券取引委員会が店頭取引を精査した。結果は1963年に公表された。いわゆるコーエン報告書(Report of Special Study of Securities Markets)である。マーケットメーカーまたは機関投資家の動態を洗い上げ描写する同報告書につづき、パットマン報告書が追い討ちをかけ、そこへ議会の公聴会も加勢した。JPモルガンがベルギーへ逃げてユーロクリアをつくり、そこへ世界中の機関投資家の決済を依存させた。ロバート・ケネディが殺されてから、インスティネット(Instinet)やナスダックが生まれ、ミューチュアル・ファンドの搾取行為が追及された。そこで機関投資家はニューヨーク証券取引所から一斉疎開した。人工的な流動性の危機へ至り、1975年やむなく1934年証券取引所法に全米市場システム(National Market System)が盛り込まれた。制度上マーケットメーカーは互いに競争するが、ユーロクリアのできてからでは意味をなさなかった。ブロック取引は機械処理されず、マーケットメーカーにお伺いを立てる必要があった。オイルショックで貸し出す現金をひねり出すため機関投資家は証券化に励んだ。1980年代、彼らはレバレッジド・バイアウトを利用してシャドー・バンキング・システムを拡張していった。ブラックマンデーのとき、マーケットメーカーの多くは、個人投資家の小口注文をまとめた証券会社の電話注文に出ることなく、他の機関投資家との取引に応じていた。
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