モンケ・カアンの筆頭御家人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:20 UTC 版)
「モンケセル」の記事における「モンケ・カアンの筆頭御家人として」の解説
モンケの即位後、これに不満を持つオゴデイ家勢力はシレムンを担ぎ出してクーデターを画策したが、事態を察知したモンケセルは先手を打って敵対勢力を全て捕らえてしまい、そのほとんどを審理の上処刑とした。この時の粛正によってジェルメ家、イルゲイ家といった建国以来の名家のいくつかは没落してしまい、彼等の業績は後世に残らなくなってしまった。この時の粛正はモンゴル帝国内でも広く知られており、『集史』「モンケ・カアン紀」でも詳述されるほか、『集史』のパリ写本にはモンケセルがクーデターの首謀者を審理する様子がミニアチュールに描かれている。 1253年秋、モンケセルは万人隊長(万戸)に任ぜられたが、それから間もなくして亡くなった。モンケセルの死後、オゴデイ家を始め多数の人々を処刑してきたことによってモンケセルを謗る声が上がったため、モンケ・カアンはモンケセルの子らに「身を立てるに正直であれ、行動を起こすには貞潔たれ。さもなければ、汝らの父を憎む者から敵意を向けられるであろう」という旨の訓戒をしたという。
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