モルガン対ジーメンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 17:19 UTC 版)
1894年、AEG は67万マルクを払ってジーメンス・ウント・ハルスケから完全独立した。1903年、AEGの支配権をめぐる競争がおこった(本段落のテーマ)。AEG は同年に電車車両製造で知られたウニオン社を吸収した。GE の合意が必要だった理由を説明する。ウニオン社は1892年ボストンのトムソン・ヒューストン(Thomson-Houston Electric Company)が参加して設立されたものであった。トムソン・ヒューストンは同時期にドレクセル・モルガン社の融資でGE に吸収合併されていた。そこでAEG がウニオン社を吸収する際にはGE と協議しなければならなかった。1907年、AEGとGEとの間にカルテルが締結され、AEGが欧州市場を、GEが北米市場を、それぞれ自社の販売地域とした。一方でAEG は1903年ジーメンス・ウント・ハルスケとの合弁会社テレフンケンを設立した。このテレフンケンはシーメンスのフェルディナント・ブラウンやGEのグリエルモ・マルコーニと無線開発を競った。ジーメンス・ウント・ハルスケは同年にAEGと合弁で無線電信会社(Gesellschaft für drahtlose Telegraphie m.b.H.)を設立した。第一次世界大戦の直前、いわゆる戦争資材会社(Kriegsrohstoffgesellschaft)が設立された。そしてシーメンスとAEGが大株主となった。 終戦によりAEGをめぐる競争はモルガンの勝利が明白となった。1919年、無線業界で国際カルテルが結ばれた(ドイツ=オーストリア電信連合#無線の時代)。1920年の前後にわたり、AEG はM・M・ヴァールブルク&COの貿易金融によりアメリカへ輸出し、見返りとしてヴァールブルクはAEG 新規発行社債の1/4をグッゲンハイム家に売却できた。
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