モタエル教会襲撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:59 UTC 版)
「サンタクルス事件」の記事における「モタエル教会襲撃事件」の解説
ポルトガル議員団の訪問による独立派デモを警戒していたインドネシア政府は、諜報活動と暴力集団の培養による弾圧を実施した。特に、インドネシア国軍兵士を中心に組織した覆面の統合派武装集団「ニンジャ」は、夜に出歩く若者を襲ったり、活動家を暴行、家を破壊するなどしていた。ディリにあるモタエル教会は、ローマ法王の訪問以降、こうした軍の迫害を逃れた若者たちが身を隠していた。10月後半になると、モタエル教会は毎晩のようにオートバイの集団に囲まれ、嫌がらせを受けるようになった。 議員団の訪問中止がされて数日後の10月28日午前2時ごろ、「ニンジャ」が、独立派の若者30人ほどが身を隠していたディリのモタエル教会を襲撃し、独立派の若者セバスティアォン・ゴメスと、アフォンソ・ランジェルを殺害した。10月29日、モタエル教会で開かれた葬儀には数千人が集まり、独立運動を行っていたカルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教がミサをとり行った。その後、ベロ司教を先頭にサンタクルス墓地まで葬儀の行進が行われた。この際、若者らが「セバスティアォン万歳」「東ティモール万歳」などと叫んだが、軍は静観しているだけだった。 議員団訪問中止を受けて、予定されていたはずのデモは、11月11日に国連人権委員会の拷問に関する特別報告者ペーテル・コーイマンスが東ティモールを訪問することから、翌11月12日のセバスティアォンの死後2週目のミサの後にデモを行うことが決定し、独立派の指導者だったシャナナ・グスマン(後の東ティモール初代大統領)の了承を得て決定した。 東ティモールでは、人の死後1週間目に「苦い花」を、2週間目に「甘い花」を墓に捧げる習慣がある。セバスティアォンについては「苦い花」の儀式は行われず、11月12日に「甘い花」の儀式のみが行われた。11月12日のミサは、6時にモタエル教会で始まり、7時過ぎに終了した。参列者はサンタクルス墓地へ向けて行進をはじめ、約3,500人の群集に膨れ上がった。群集はすぐにデモと化し、「シャナナ万歳」「東ティモール万歳」などと口々に叫び、横断幕や東ティモール民主共和国の国旗などを掲揚して行進した。そのなかで、インドネシア国軍のゲルハン・ランタラ少佐が群集に刺されるという事件が起きた。ランタラは、翌日の軍の記者会見では死亡したと発表された。しかし、実際はジャカルタの病院へ搬送されて、回復に向かっていた。
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