メルセデス・ジュニア~国際F3000時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 20:23 UTC 版)
「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の記事における「メルセデス・ジュニア~国際F3000時代」の解説
1988年のドイツ・フォーミュラ・オペル選手権でチャンピオンを獲得。1989年のドイツF3でカール・ヴェンドリンガー、ミハエル・シューマッハとチャンピオン争いを繰り広げ、ヴェンドリンガーに次ぐランキング2位となる。彼ら3人はメルセデスの若手育成プログラム(ジュニアチーム)に抜擢され、ヨッヘン・マスのパートナーとして1990年のWSPCに持ち回りで参戦した。メルセデスの英才教育を受け、将来F1へステップアップすることを期待された。フレンツェンはエディ・ジョーダン・レーシング (EJR) から国際F3000にも参戦したが、翌年からのF1参戦の準備に注力し始めていたジョーダンチームはF3000チームの力が下降しており、フレンツェンは満足な成績を収められなかった。 1991年はF1への近道として国際F3000に専念することにし、メルセデスのジュニアチームから離脱。だがF3000での成績は振るわず、ジュニアチームの元同僚2人がF1デビューを果たしたため、ジュニアチームからの離脱は逆に一人だけ遠回りな選択になってしまった。フレンツェンをサポートするはずだったキャメルのドイツ法人がジョーダンのスポンサーを降り、その資金をミハエル・シューマッハの所属するF1ベネトンチームに回すという皮肉な結果となった。また、私生活でも元ガールフレンドのコリーナ・ベッシュがシューマッハと交際し始めるなど、まさにどん底の時代を経験する。 なお、フレンツェンもF1シートを得るべく1991年秋には翌年に向けティレルと交渉機会を持ち、ブラバムとも交渉し実際にBT60Yのシート合わせも完了していたが、要求されたスポンサーや持参金を用意できずレギュラーシートは得られなかった。
※この「メルセデス・ジュニア~国際F3000時代」の解説は、「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の解説の一部です。
「メルセデス・ジュニア~国際F3000時代」を含む「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の記事については、「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の概要を参照ください。
- メルセデス・ジュニア~国際F3000時代のページへのリンク