ミルトン・フリードマンへの授賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:25 UTC 版)
「ノーベル経済学賞」の記事における「ミルトン・フリードマンへの授賞」の解説
生理学・医学賞を受賞したジョージ・ワルドは、化学賞及び平和賞を受賞したライナス・ポーリングと連名で、ミルトン・フリードマンの受賞に反対する投書を送った。フリードマンが、チリの軍事政権(アウグスト・ピノチェト政権)と密接な関係にあったことを問題視したからである。医学賞受賞者のデヴィッド・ボルティモア、サルバドール・エドワード・ルリアもフリードマンの受賞に反対した。 フリードマンの受賞に抗議して、スウェーデンでは数千人規模のデモ行進が行われ、事態制圧に300人の警察官が動員された。 フリードマンは、チリ政府の顧問を務めたことはないとしており、1975年にチリに6日間訪れたのを最後に「一切接触を断った」と述べた。フリードマンは、授賞式の日に行われたストックホルムでの抗議デモに対し「ごろつき」だと非難し、「ナチズムの匂いが漂っており、鼻が腐りそうだ。言論の自由において、都合の悪い発言を抑えこむようなやり方は許されない」と述べた。だが、ナオミ・クラインらの調査によれば、実際にはチリのピノチェト軍事政権の経済顧問にシカゴ・ボーイズが参加し、新自由主義の実験場になっていた。なお、フリードマンはニクソンとレーガンの両名を熱烈に支持したが、両者ともマッカーシーの赤狩りの協力者であった。ニクソンについては、途中からケインズ主義的な経済政策を実施したため、フリードマンは「アメリカ史上、もっとも社会主義的な大統領」と激しく非難した[要出典]。
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