ミクマクの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 03:51 UTC 版)
16世紀以降、ミクマク人は一般的に有害とされるヨーロッパ人との接触の影響を受けてきた。遊牧民だったミクマク人は定住者になる。リシャール・ドニは周囲のミクマク人をシェナボディッシュ(バーント・チャーチ)に定住させるように誘ったが、それは、宣教師が彼らの定住化がキリスト教化を促進すると考えたからである。毛皮貿易により、ミクマク人が銅鍋などの有用な道具を得ることができたが、ますますヨーロッパの技術に依存するようになり、さらには農業などで食生活が豹変する。1685年から1688年にかけて、チューリ神父を中心とした最初のトウモロコシの栽培がミラミシで行われた。17世紀前半には早くもイエズス会は、ヨーロッパの商人が販売していたアルコールの弊害に気づいた。他のアメリカ先住民と同様に、ミクマク人もヨーロッパ人の感染病に大きく苦しんでいた。16世紀には1万人だった人口は、17世紀には約3000人にまで減少し、その後は再びゆっくりと増加していった。ワバナキ連盟はフランスと同盟を結んだため、ミクマク族は他のアルゴンキン族と一緒にイギリスと対峙しなければならなかった。このようにして、ミクマク人はニューイングランドへの攻撃や1697年のセントジョンでの闘争に参加していた。1713年にイギリスがアカディを支配するようになってから、イギリス人はミクマク人を絶滅寸前に追い込むほど攻撃が相次いだ。 バーント・チャーチ、ポークムッシュ、タブシンタックの保護区は、 1802年にミクマク人に付与された。
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