ポルトガル領ティモールへの就航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 02:07 UTC 版)
「大日本航空」の記事における「ポルトガル領ティモールへの就航」の解説
当初、横浜―サイパンーパラオ間の路線をオランダ領東インド諸島へ延伸することを計画していた が、日本政府とオランダ領東インド総督との交渉が妥結せず、1941年(昭和16年)6月18日をもって決裂したために、オランダ領東インドへの就航が不可能となった。 オランダ領東インドに代わって、ポルトガル領ティモールへの就航が計画され、オランダ領東インドとの交渉が決裂する以前の1940年(昭和15年)10月23日に、パラオからディリへの試験飛行が実施された。合計3回の試験飛行が実施されたのち、1941年(昭和16年)10月13日に、リスボンにおいて「日本国、ポルトガル国航空協定」が締結され、パラオとディリ間において、2週間に1往復の定期便が就航。大日本帝国にとってタイのバンコクに次ぐ2番目の定期国際航空路線となった。しかし、太平洋戦争の開始に伴い、1941年11月29日をもってこの路線は運休とされた。
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