ボーイスカウト薩摩郷中起源説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:42 UTC 版)
「日本におけるスカウティング」の記事における「ボーイスカウト薩摩郷中起源説」の解説
「B-Pは薩摩藩の伝統的な子弟教育法である郷中(ごうじゅう/ごじゅう)にならってボーイスカウトを創設した」という説がある。戦前の一時期まで日本のボーイスカウト界において、および後藤新平による郷中教育の調査以降の郷中研究において主張されたものであるが、後述のとおりB-P本人は否定している。 1908年、英国ボーイスカウトを視察した北条時敬は講演で、ボーイスカウトと郷中がよく似ており、郷中にボーイスカウト起源があると推測されると述べている。日本のボーイスカウト運動の草分けである深尾韶は『少年軍団教範』(1915年)のなかで「ボーイスカウトが英国に起ったのは、我が日本の鹿児島に於ける健児の杜の方限の組織に倣ったのだ」と言及している。また、目黒栄は『新生少年団の運営』(1942年)の中でB-Pは日本の駐英武官から薩摩や会津の子弟訓練法を教わったと記述している。少年団日本連盟総裁であった後藤新平は鹿児島で郷中に関する調査を行い、それを紹介する文章でボーイスカウトは「古武士の俤に芽生えた新武士道」である事が瞭然であると述べている。 しかし、勝矢剣太郎は、B-Pに本件を確認したところ「いづれと云ふ程の確たるものがなく、只日本に負ふ処頗る多い」との回答を得たと『欧州のスカウト行脚』(1928、成輝堂書房)で述べている。「日本の武士道に負う所は多いが、特に郷中に倣ったわけではない」ということである。田中治彦は、B-Pにとっては武士道は武士道であり「それが薩摩であるか会津であるか或いは赤穂であるか」の区別はしていなかったとしている。
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