ボランティア活動家としての顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 15:41 UTC 版)
「山田成雲」の記事における「ボランティア活動家としての顔」の解説
リスポンス協会会長として、オゾン層保護活動に取り組む。 阪神大震災の時、神戸で最大規模のボランティア団体「神戸元気村」の代表者として全国に知られることとなった。震災直後の1月18日には神戸入りし、それまでの環境活動などのネットワークを通じて支援を呼びかけ、1月19日には東灘区御影公会堂ので炊きだし、また、1月23日には松山ユースホステルへ、高齢の被災者を一時避難させるプロジェクトをはじめる。その後、隣接する石屋川公園をボランティアの拠点として「神戸元気村」を立ち上げ、民間ボランティアセンターの先駆けとして活動を行う。 神戸元気村は、はじめの2週間ほどで、被災者支援の20余りのプロジェクトを立ち上げた。 1997年1月、ナホトカ号重油災害では現地にいち早く入り、「ボランティアの結集により解決を図ること」を決断。JCや、社会福祉協議会によびかけ、ノウハウを蓄積するNPOの連携により重油災害ボランティアセンターを立ち上げる。当時の重油災害ボランティアセンターが、その後の災害の度に立ち上がるようになった「災害ボランティアセンター」の先駆けであり、その後の災害時のモデルとなっている。 山田の活動の一部はNEWS23で紹介されたり、その後に、プロジェクトXでも紹介されている。 また、千島学説やソマチッドなどを伝えるための講演活動、きくちゆみらとともに、アメリカ同時多発テロ事件陰謀説をテーマにしたビデオ作品『911ボーイングを探せ』などを広める活動を全国で行った。自身の活動は、NGOであるOPEN JAPAN名義でおこなっている。 2015年1月5日、急性心不全のため死去。63歳没。
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