ペルシア語史料での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:24 UTC 版)
モンゴル帝国において準モンゴル人として遇されていた史天沢は、『集史』などのペルシア語史料ではサムカ・バアトル(Samka ba'tur/سمکه بهادر)の名前で記されている。この人名は漢文史料では「三哥抜都(『元史』巻1太祖本紀)」とも記されており、史天沢が史秉直の三男(三哥)であることからつけられた通称であると考えられている。 『集史』「クビライ・カアン紀」は史天沢=サムカ・バアトルが南宋遠征の司令官に任命されたが、その職をバヤンに譲った経緯を以下のように記している。 [バヤンが]そこ(クビライ・カアンの下)について、カアンは30トゥメンのモンゴル軍と80トゥメンのヒタイ(漢)軍を整えられた。そして、ヒタイ人のアミールの一人でチャガン・バルガスンの出身であり、モンケ・カアンの治世にイルになっていて、正しい心で仕えているサムカ・バアトルをヒタイ軍の長に任命なされた。前述のバヤンと、ウリヤンカイ部族出身でスベエデイ・バアトルの孫のアミール、アジュをモンゴル軍の長に任命された。[そして次のように]命じられた。「全軍の長は、サムカ・バアトルである。なぜなら、彼の紀律は厳しく、いつもその務めをよく果たしたからだ」と。彼等をナンギャス(南宋)の方へ派遣した。サムカは病のために途中で戻り、両軍どちらの長もバヤンとアジュになった。 — ラシードゥッディーン、『集史』「クビライ・カアン紀」
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