ペルシア王朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/18 13:38 UTC 版)
「アルメニアのイスラム教」の記事における「ペルシア王朝時代」の解説
ペルシアのサファヴィー朝(すでにスンナ派からシーア派に宗旨を変えていた)が、16世紀初めのシャー・イスマーイール1世の時代以降、アルメニアおよび他地域の支配を確立した。サファヴィー朝はしばしばオスマン帝国と領土を巡って争ったが、アルメニアはロシア・ペルシャ戦争でロシアに割譲されるまで、その後3世紀の間ペルシアの主要な領土でありつづけた。シャー・アッバース1世の統治以降、アルメニア人の多くは民生および軍事においてサファヴィー朝の官職を得た。特にghulam(グラム、奴隷の意)と呼ばれる軍の精鋭部隊には、チェルケス人やグルジア人と並んで改宗したアルメニア人が多く加わっていた。民生・軍事とも、官職を得るには必ずイスラム教に改宗しなければならないという点はオスマン帝国と同様であったが、キリスト教徒にとどまる者(高位の官職に就くことはできなかった)が追加の税を支払わなくてもよい点はオスマン帝国と異なっていた。 アッバース1世は、オスマン帝国との戦いにおける焦土作戦の一環として、またペルシアの経済振興のため、一代で約25万人のアルメニア人を、現在のアルメニア領土を含むアルメニア高地からイラン中央部へと強制移住させた。そして同地にできた空白地帯を埋めるため、トルクメン人(現在のアゼルバイジャン人)とクルド人のムスリムを同地へ集団移住させ、オスマン帝国に対する国境防衛に当たらせた結果、同地はムスリムが優勢な地域となった。その後の政権も、この強制移住およびトルクメン人(アゼルバイジャン人)とクルド人の集団移住を引き続き推進した。サファヴィー朝の君主はまたこの地にエレバン・ハン国を建国、アケメネス朝時代の、王に代わって太守が統治する体制と似た汗国制度を採用し、19世紀前半までアルメニア高地全域がムスリムの支配下に置かれつづけることになった。 ペルシアが200年近くに及ぶ汗国支配を続けたアルメニアを割譲した時点で、現在のアルメニアに相当する地域の住民は大半がムスリム(ペルシア人、アゼルバイジャン人、クルド人、北カフカス人)となっていた。
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