ブラックロックとバッファローへの襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:19 UTC 版)
「エリー砦包囲戦」の記事における「ブラックロックとバッファローへの襲撃」の解説
イギリス軍がエリー砦に到着したとき、ドラモンドはまず8月3日に平底船でナイアガラ川を渡し、バッファローとブラックロックを襲撃させて、アメリカ軍の物資や食料を破壊させようとした。その部隊は2つに分けられた。1つはエバンス中佐の指揮する第41歩兵連隊から2個フランク中隊と4個センター中隊で構成され、もう1つはドラモンドの甥であるケルティのウィリアム・ドラモンド中佐が指揮する第89歩兵連隊の第2大隊軽装中隊と第100歩兵連隊、第104連隊のフランク中隊で構成された。これに幾らかの砲兵が加わり、総勢は600名になった。全体指揮は第41歩兵連隊の上級中佐であるジョン・タッカー中佐が執った。 この襲撃は失敗だった。ナイアガラ川のアメリカ側に上陸すると、徒渉が難しいコンジョクタ・クリーク(現在のスカジャカダ・クリーク)に架かる橋が壊されており、アメリカ軍ロドウィック・モーガン少佐の指揮するアメリカ第1ライフル銃連隊に志願兵を加えた240名の分遣隊が、橋の修繕を阻止するためにクリークを守っているのが分かった。このときの戦闘で、イギリス軍は戦死11名、負傷17名、不明5名を出した。アメリカ軍は6名を捕虜にしており、イギリス軍に戦死と報告された者のうち1名は捕虜になっていたことになる。従って戦死10名、負傷18名、捕虜6名である。タッカーは部隊が恐慌を起こして逃亡したと報告したが、最後は再集合させられた。アメリカ軍は戦死2名、負傷8名だった。モーガンはその数日後に前進基地間の衝突で戦死した。
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