パイオニア号の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 20:22 UTC 版)
「プルマン (企業)」の記事における「パイオニア号の開発」の解説
ジョージ・プルマンは、1855年にニューヨーク州バッファローからウェストフィールドへの夜行列車に乗っている時に、当時の劣悪な客車に悩まされ、大幅に改良した豪華な客車を製造するというアイデアを考え付いた。もともとプルマンは家具の製造事業を親の代から行っており、その経験を生かしてシカゴ・アンド・アルトン鉄道 (Chicago and Alton Railroad) の客車をベースに改造して、1859年に最初のプルマン製寝台車No.9を送り出した。この車両はブルーミントン–シカゴ間で運行された。この車両はまだそれほど豪華なものではなかったが、ちょうどそのころ勃発した南北戦争により、プルマンが製造した車両は兵員輸送目的で大量に買い上げられた。 これにより経済的な基盤を固めたプルマンは、かねてから考えていた豪華な客車の開発に乗り出した。1865年にこの理想はパイオニア号として送り出されることになった。しかしパイオニア号は当時の車両限界を超えて巨大で、当初は鉄道会社に受け入れられなかった。ところがエイブラハム・リンカーン大統領が暗殺されると、その棺を乗せてワシントンD.C.からリンカーンの故郷に近いイリノイ州スプリングフィールドまでの葬送列車に用いられることになった。このために葬送列車が通行する路線については大至急パイオニア号に合わせて車両限界の拡張が行われ、これによってパイオニア号クラスの大きさの客車が通れる鉄道路線が広がることになった。葬送列車に使われたことによって注目を集めたことから、各界の名士からプルマンの列車への乗車希望が集まるようになり、鉄道会社にとってもプルマンは無視できないものとなった。
※この「パイオニア号の開発」の解説は、「プルマン (企業)」の解説の一部です。
「パイオニア号の開発」を含む「プルマン (企業)」の記事については、「プルマン (企業)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からパイオニア号の開発を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からパイオニア号の開発を検索
- パイオニア号の開発のページへのリンク