ハンニバルのイタリア南部へ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:52 UTC 版)
「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事における「ハンニバルのイタリア南部へ侵攻」の解説
ハンニバルが主導権を持ちつつもなぜ直接ローマへ侵攻しなかった理由については推論の域を出ず、またトラシメヌス湖畔での勝利直後にローマへ向かったらどうなったか、に関しても同様である。事実としてはハンニバル率いるカルタゴ軍は南東へ向かってペルシア(現在のペルージャ)を経由してウンブリアへと入った。共和政末期・帝政初期の歴史家であるティトゥス・リウィウスはラテン人殖民都市であるスポレンティウム(現在のスポレート)包囲戦に関しての記述があるが、ポリュビオスはそれには触れおらず、おそらくは小規模なカルタゴ軍襲撃部隊がスポレンティウムで問題を起こした程度と推定されている。ハンニバルはトラシメヌス湖畔の戦いののち、農村部を略奪した後、アドリア海沿岸へと出て、10日後にはヘリタに到着した。ここでハンニバルは壊血病に苦しんでいた兵を休息させ、ローマ兵から奪った装備でリビュア兵の武装を整え、現地のワイン(acetum)を軟膏代わりに使って騎兵の馬を健康な状態へと戻した。周囲にはローマ軍はいなかったため、ハンニバルはいまだ自由に次の行動を決定できる状態にあった。
※この「ハンニバルのイタリア南部へ侵攻」の解説は、「アゲル・ファレルヌスの戦い」の解説の一部です。
「ハンニバルのイタリア南部へ侵攻」を含む「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事については、「アゲル・ファレルヌスの戦い」の概要を参照ください。
- ハンニバルのイタリア南部へ侵攻のページへのリンク