ハドソン・バレーとコネチカット、1779年
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「ロバート・ハウ」の記事における「ハドソン・バレーとコネチカット、1779年」の解説
リンカーンが到着した後、ハウは北部の大陸軍に合流するよう命じられ、1779年5月19日に着任した。ハウは転倒したときに負傷し、到着後も1か月間は任務をこなせなかった。当初は昔の庇護者であるウィリアム・トライアンやその副官であるエドマンド・ファニングによるイギリス軍の襲撃に対してコネチカットを守るのが任務だった。ハウの作戦本部はリッジフィールドにあった。 ストーニーポイントの戦い直前の1779年6月18日、ストーニーポイントからはハドソン川の対岸にあるイギリス軍の防衛拠点バープランクス・ポイントを襲撃する作戦で、イズラエル・パットナム将軍を支援するよう命令された。ハウは砲兵隊による砲撃と歩兵の襲撃を指揮するよう任されたが、与えられた野砲、塹壕掘削用の道具、食料、弾薬の数は少なく、敵陣地を本気で奪いに行けるものではなかった。この作戦は無理だとワシントンに助言し、ワシントンの同意で攻囲を中止させた。歴史家達はハウがイギリス軍陣地を奪えなかったことで、その経歴に傷をつけ、二度と大きな指揮の役割を与えられなかったと主張している。ウィリアム・アーバインなど同時代の将軍は、バープランクス・ポイント襲撃について、ハウは「才能があり、 ... 考えられる多くの障害を見出し、その遅れについてもっともらしい言い訳をこしらえただけだ」と批判していた。 ストーニーポイントの戦い後、ハウは先ずワシントン軍の左翼指揮を任された。その部隊はジョン・ニクソンとジョン・グローバー各将軍が指揮するマサチューセッツの旅団と、リッジフィールドで指揮する自らの部隊で構成されていた。ハウが統制している地域では軍事行動がほとんど無かったので、マンハッタンやロングアイランド湾沿いにあるイギリス軍の陣地について情報を愛国者軍に提供するスパイを求め、そのネットワークを育成することが任務となった。
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