ハドソンの背信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 02:29 UTC 版)
ハドソンがミッドランド鉄道やその他の鉄道のために反対していたにもかかわらず、エドムンド・デニソン (Edmund Denison) 率いる新しいロンドン・アンド・ヨーク鉄道(後のグレート・ノーザン鉄道)はしつこく主張し続け、1846年に設立を許可する法案が議会を通過した。 ハドソンはここに来て忠誠の先を変更し、自身の所有するヨーク・アンド・ノース・ミッドランド鉄道をノッティングリー(英語版)へと接続する短い線の建設を推進した。これは表向きは採石用の路線とされていたが、グレート・ノーザン鉄道がヨークに接続しやすくするものであった。 ハドソンの背信は、ミッドランド鉄道の経営陣を激怒させた。経営陣がハドソンを排除したことは世間の関心をひきつけ、ハドソンの財務状況に関する異なる側面について問われるようになった。おそらく運河以外では、19世紀初めまで鉄道にその規模と資本の面で匹敵する会社は存在していなかった。会社法は未発達で、多くの人間がそれを利用していた。ハドソンが鉄道の発達を大いに促進したことには疑いがないが、彼の財務的な慣行はしばしば胡散臭いものであった。最終的に彼は信用を失い、パリで貧困のうちに引退することになった。 ハドソンの離反後、ミッドランド鉄道は財務的な困難に直面した。グレート・ノーザン鉄道法案に反対するのは莫大な費用がかかり、多くの保線作業が延期されたままになっており、リンカンやピーターバラへの路線はまだ建設費を払い続けなければならなかった。これに加えて、ミッドランド鉄道はラグビーからロンドンまでの輸送をロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に依存していたので、グレート・ノーザン鉄道に多くの輸送を奪われてしまった。 ジョン・エリスが会社の財務を管理していたおかげで、財務に不適当なところはなく、ミッドランド鉄道がこの状況をしのいで後に繁栄したのは、彼の商才によるものであった。 彼は、旅客輸送の面で競争するよりもむしろ、グレート・ノーザン鉄道およびマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道(英語版)の両者に対して有利な立場にあった石炭輸送の面に集中することにした。ヨークシャー炭田には多くの路線が接続しており他社の侵食に抗さなければならなかったが、ノッティンガムシャー炭田やダービーシャー炭田に対してはほぼ独占を形成しており、こうした炭田は30マイルかそれ以上ロンドンに近かったのである。
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