ニ号研究の開始と仁科研究室の対応とは? わかりやすく解説

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ニ号研究の開始と仁科研究室の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 13:46 UTC 版)

飯盛里安」の記事における「ニ号研究の開始と仁科研究室の対応」の解説

1941年には理研対し陸軍航空技術研究所から原子爆弾 (当時ウラン爆弾呼ばれた) の開発要請があった。当時技術将校として理研仁科研究室配属されていた中根良平によると、仁科はこの時点では要請断ったその後検討結果理論的に原爆作ることは可能という結論出て要請を受けることになり、1943年1月いわゆるニ号研究始まった。しかし、仁科一度断った原爆開発をなぜ受け入れることになったかが仁科の口から語られることはなかった。この点に関して中根理由次のように推定している。 仁科原子力将来エネルギー源として利用することを考えていた。 当時ウラン (92番) より重い超ウラン元素発見各国の間で競われていた。仁科は小サイクロトロン使用して93元素狙っていたが、アメリカエドウィン・マクミラン先を越されてしまった。そこで大サイクロトロン完成させて 94元素発見しようとしていた。ニ号研究受け入れることによって、この研究進展させようとしていた。 当時仁科研究室員は誰一人原爆作れるとは考えていなかった。また、研究室総力挙げてニ号研究取り組んだわけではなく宇宙線理論研究していた人たちはノータッチだった。ニ号研究携わった者は皆、原爆作るではなく基礎実験だと思っていた。これを裏付けるように東京工業大学山崎正勝は、仁科にとって「ニ号研究」と「ウラニウム爆弾構想は、理研におけるサイクロトロンなどによる実験的な基礎研究を守るための「盾」だった面がある、と述べている。

※この「ニ号研究の開始と仁科研究室の対応」の解説は、「飯盛里安」の解説の一部です。
「ニ号研究の開始と仁科研究室の対応」を含む「飯盛里安」の記事については、「飯盛里安」の概要を参照ください。

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