ニ号研究の開始と仁科研究室の対応
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「飯盛里安」の記事における「ニ号研究の開始と仁科研究室の対応」の解説
1941年には理研に対し陸軍航空技術研究所から原子爆弾 (当時はウラン爆弾と呼ばれた) の開発の要請があった。当時技術将校として理研仁科研究室に配属されていた中根良平によると、仁科はこの時点では要請を断った。その後、検討の結果理論的には原爆を作ることは可能という結論が出て要請を受けることになり、1943年1月にいわゆるニ号研究が始まった。しかし、仁科が一度断った原爆開発をなぜ受け入れることになったかが仁科の口から語られることはなかった。この点に関して中根は理由を次のように推定している。 仁科は原子力を将来のエネルギー源として利用することを考えていた。 当時ウラン (92番) より重い超ウラン元素の発見が各国の間で競われていた。仁科は小サイクロトロンを使用して93番元素を狙っていたが、アメリカのエドウィン・マクミランに先を越されてしまった。そこで大サイクロトロンを完成させて 94番元素を発見しようとしていた。ニ号研究を受け入れることによって、この研究を進展させようとしていた。 当時仁科研究室員は誰一人原爆が作れるとは考えていなかった。また、研究室の総力を挙げてニ号研究に取り組んだわけではなく、宇宙線や理論を研究していた人たちはノータッチだった。ニ号研究に携わった者は皆、原爆を作るのではなく、基礎実験だと思っていた。これを裏付けるように東京工業大学の山崎正勝は、仁科にとって「ニ号研究」と「ウラニウム爆弾」構想は、理研におけるサイクロトロンなどによる実験的な基礎研究を守るための「盾」だった面がある、と述べている。
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