ニューヨーク・ワールド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 22:52 UTC 版)
「マントン・マーブル」の記事における「ニューヨーク・ワールド」の解説
1862年、マーブルは1860年に創刊された『ニューヨーク・ワールド』紙を買収し、その編集長となった。マーブルはワールド紙を、自由貿易を支持する民主党寄りの紙面に変えた。1863年のニューヨーク徴兵暴動の際には、『ニューヨーク・トリビューン』や『ニューヨーク・タイムズ』のような共和党系の新聞とは違い、マーブルのワールド紙のオフィスは襲撃されなかった。 1864年、ワールド紙に掲載されたリンカーン大統領からのものとする文書が偽造であることが判明し、ワールド紙は詐欺罪で起訴された。リンカーンはマーブルを逮捕し、ワールド紙のオフィスを軍の監視下に置いた。ワールド紙は3日後に発行を再開することが許された。 1872年の大統領選挙で、ワールド紙は、自由共和党(英語版)から出馬し民主党の公認を受けたホレス・グリーリーの選挙活動に対し猛烈に反対した。1876年の大統領選挙で民主党候補のサミュエル・ティルデンが敗北したことに嫌気がさし、選挙後にワールド紙を売却した。 1885年、複本位制会議の代表としてヨーロッパに行った。1888年にはマンハッタンクラブの会長に就任した。マーブルは1917年7月24日、イギリスで82歳で死去した。
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