ドブジン地方の代官、領土拡大
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「ヴワディスワフ・オポルチク」の記事における「ドブジン地方の代官、領土拡大」の解説
そこでヴワディスワフはハンガリー人の代官に代わり、ドブジン地方の諸都市、クヤヴィ、ブィドゴシュチュ、イノヴロツワフ、グニェフコヴォなどの支配を任された。これらの地域はドイツ騎士団国家と国境を接しており、ヴワディスワフはすぐに騎士団国家との友好関係を築いた。ヴワディスワフは騎士団の騎士達にドブジン地方において犯罪者を処刑する権利も認めている。 ヴワディスワフはクヤヴィにおける財政問題を巡って、プウォツク司教ドビェスワフ・スフカと係争を起こした。スフカはヴワディスワフを破門したが、この破門はその次の年にグニェズノ大司教によって取り消されている。教会との関係を良好なものにするため、ヴワディスワフはチェンストホヴァのヤスナ・グラに修道院(ヤスナ・グラ修道院)を寄進した。また、ヴワディスワフは同修道院に有名な「チェンストホヴァの黒い聖母」を安置したといわれる。「黒い聖母」ははるばるエルサレムからコンスタンティノープル、ベルズ経由で1382年の4月、チェンストホヴァに到着した。 1382年9月14日、従兄のニェモドリン公ヘンリクが子供のないまま死んだ。その1ヶ月後の10月21日には、弟のボルコ3世が4人の幼い息子達を残して死んだ。彼らの死によってグルヌィ・シロンスク(高地シロンスク)におけるヴワディスワフの政治的影響力はかなり強まり、スチェルツェ、ニェモドリン(甥達の摂政として)、グウォグヴェク(1383年より)の支配者となった。また、ボルコ3世の長男ヤン・クロピドウォの教会における昇進を支援し、若い甥にポズナン司教職を獲得させた。
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