ドバイ遠征と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:00 UTC 版)
ホクトベガは、1997年に実施された第2回ドバイワールドカップに招待されて出走する。このレースがホクトベガの引退レースとなり、レース終了後はそのまま渡欧させてヨーロッパの一流種牡馬と交配させ、酒井牧場に戻って繁殖牝馬となる予定だった。ホクトベガはドバイまでの長距離輸送によって飼葉食いが落ち込み、体重はベストの状態から20キログラム以上落ち込んだ。加えて裂蹄にも悩まされたが、裂蹄はアメリカの装蹄師トッド・ボストンによって、グラスファイバーによる治療が施された。また最終追い切りには本馬場ではなく、より馬場状態の良いゴドルフィン軍団のアル・クオーツ厩舎の専用コースを借りることができた。これらの関係者の不断の努力によってホクトベガの体調は復調傾向を示し、十分にレースが可能な状態に仕上げられていった。 しかし、当初の開催予定日(3月29日)はドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、レースは4月3日に順延となった。レース本番を迎えたホクトベガは中団から後方に位置していたが、最終コーナーで転倒し、さらに後続のビジューダンド(Bijou d'Inde)が巻き込まれる形で追突。ホクトベガは左前腕節部複雑骨折となり、予後不良と診断されて間もなく安楽死処置を受けた。 安楽死処分となったホクトベガの遺体は輸送(検疫)の関係上で日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはホクトベガのたてがみが遺髪として納められた。この17日後には繁殖牝馬として酒井牧場に帰っていたマックスジョリーが出産時の子宮大動脈破裂で急死、酒井牧場には悲報が相次ぐことになった。
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