ティルス防御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 06:50 UTC 版)
「コンラート1世 (モンフェラート侯)」の記事における「ティルス防御」の解説
彼はかねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった。彼はコンスタンティノープルを去り、1187年の7月にエルサレム王国に移って港湾都市ティルス(ティール)の守りを任された。おりしも、アイユーブ朝のサラディンによる地中海沿岸諸都市の陥落と、ハッティンの戦いでのエルサレム王国軍の大敗によって、首都エルサレム陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。 エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王のギー・ド・リュジニャンが捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく。
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