ツイード・リングへの反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「トーマス・ナスト」の記事における「ツイード・リングへの反対運動」の解説
ナストの絵はタマニー・ホールの強力なリーダーであるボス・ツイードの失脚を早めた。ニューヨーク市の公共事業の長官として、ツイードは1870年までに市の行政を完全に支配し、「州議会で働く大多数」をコントロールした。ツイードとその同僚Peter Barr Sweeny(公園監督者)、Richard B. Connolly(公共支出の管理人)、市長のA. Oakey Hallは、その輪に繋がっている業者に払った費用を大幅に水増しし、数百万ドルの金を横領した。ナストは、タマニーの腐敗を攻撃する漫画を1867年より時々出していたが、1870年、特に1871年に4人の主要人物に的を絞った。 ツイードはナストの活動を恐れ、10万ドルの賄賂を渡すための密使を送った。そのお金はナストがヨーロッパで芸術を学ぶことができるために裕福な後援者の集団からの贈り物としていた。興味があるのを装いさらに多い金額を交渉した後、50万ドルまで吊り上げたがこの申し出を断りこう言った「自分はそれをしようとは思わない。そんなに前からではないが、それらの何人かを鉄格子の中に入れてやろうと決断しました」。ナストはハーパーズの誌上で攻撃を行い、ツイードの輪は1871年11月7日の選挙で権力からは取り除かれた。ツイードは1873年に逮捕され、詐欺の有罪判決を受けた。ツイードが1875年12月にキューバへ逃げ、さらにそこからスペインへ逃げ処罰を回避しようとした際には、ビーゴの役人たちはナストの漫画の1つを使って逃亡したツイードを特定することができた。
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