タウロッゲン協定の交渉
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「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「タウロッゲン協定の交渉」の解説
クラウゼヴィッツはバーレン将軍の下で3週間ほど参謀勤務につき、第1騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当した。ロシア軍はボロジノの戦いに敗北してからモスクワに退却し、また9月14日にはモスクワを焼き捨ててカルーガへと後退した。フランス軍はこの焦土作戦により弱体化し、10月24日にモスクワでロシアからの撤退を決断した。冬の到来が例年よりも早かったことや、後方連絡線が遮断されたこともあって、フランス軍では被服や食糧が欠乏状態にあった。そのために44万名の兵力で侵攻したフランス軍は数千名にまで減っていた。ナポレオンは12月5日に指揮権をミューラー元帥にわたしてパリへと帰還した。クラウゼヴィッツがこの戦役でヴィットゲンシュタイン軍団に勤務している間にマクドナルド元帥が指揮するフランス・プロイセン連合軍とロシア軍が対陣した。12月26日にクラウゼヴィッツはプロイセン軍との戦闘を回避するためにロシア軍の軍使としてプロイセン軍のヨルク中将を訪れ、停戦交渉を行った。ヨルクを説得したことでクラウゼヴィッツはナポレオン指揮下のプロイセン軍をロシア軍は中立と見なし、プロイセンからリトアニア地域を中立地帯に設定、東プロイセンをロシア軍の占領から解放するというタウロッゲン協定の締結に成功した。この協定はプロイセン国王に伝えられ、ヨルク中将はフランスとの同盟を破棄する機会が到来したことを進言し、国王は12月30日に協定を承認した。
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