ソ連・中国学術視察団
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「日本学術会議」の記事における「ソ連・中国学術視察団」の解説
仁科芳雄は1950年の3月に日本学術会議代表として渡米。仁科は「国をこえて科学者が協調して軍事研究を拒否すること」を志向し、米ソの科学者を日本が橋渡しすることを願っていた。仁科は滞米時にソビエト連邦(ソ連)の研究者との接点を探ったが、当時はなす術がなかった(仁科は翌1951年1月に死去)。 その後、日本学術会議は1952年に「ソビエト連邦および中華人民共和国と学術交流の途を開くことについて」という要望を政府に提出。1955年の5月7日から6月25日にかけて、第4期会長を務めた茅誠司を代表とする学術視察団がソ連と中華人民共和国を訪問。同年秋には中国科学院から、院長の郭沫若を代表とする科学視察団が来日した。翌1956年には学術視察団の報告書が発行されている(日本学術会議 1956)。
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