ゼニツァの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「ゼニツァの虐殺」の解説
旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、1993年4月19日にゼニツァの市場に対して加えられた砲撃は、クロアチア防衛評議会によってゼニツァの東15キロメートルにあるプティチェヴォ(Putičevo)から行われたものであり、これにより15名が死亡し50名が負傷したとしている。砲弾は昼の12時10分、12時24分、12時29分にそれぞれ2発ずつ着弾した。砲撃には2門のD-30 122mm榴弾砲が使用され、これは砲弾の装填が手動であるため砲撃に時間を要する。攻撃は正確に標的を定めて行われており、明らかに素人にできることではなかった。欧州共同体監視団(英語版)のデンマーク人監視員は砲撃の直後に現場を訪れ、写真を撮影した。写真には砲撃直後の市場の惨状が写し出されており、多くの遺体が地面に転がり、自動車が破壊され、バスも壊れ、建物も損傷を受けている様子が分かる。クロアチア人勢力は、砲撃はセルビア人によるものと主張したが、こうした主張は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のダリオ・コルディッチ裁判にて退けられた。
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