スポーツ団体の職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 14:25 UTC 版)
「トーマス・バッハ」の記事における「スポーツ団体の職歴」の解説
早くからスポーツ関連の職を手がけており、1975年から1979年まで、西ドイツ・フェンシング連盟(DFB)のスポークスマンを務めた。1981年、IOCに新設されたアスリート委員会の委員。1982年、西ドイツ(後のドイツ)・オリンピック委員会の委員に就任。 1991年にIOC委員となり、ドイツ・オリンピック委員会の職を辞任した。1995年、スポーツ仲裁裁判所の控訴部の代表者に任命された。1996年にIOCの理事に就任。2002年冬季オリンピック開催地の決定(ソルトレークシティ)と2004年夏季オリンピック開催地の決定(アテネ)に際しては評価委員会の委員長を務めていた。2000年 - 2004年と2006年 - 2013年は副会長を務めた。すなわち、まず、2000年のシドニーオリンピックに際して開かれた第111次IOC総会で、IOC副会長に選出され(ドイツからは史上3人目)、輪番制により2004年8月、この職を離れたが、続いて2006年、トリノ冬季オリンピックに際してのIOC総会で副会長に再選され、当時のジャック・ロゲ会長の有力な後任候補となった。 2006年5月、ドイツスポーツ連盟(DSB)とドイツ・オリンピック委員会(DOK)の合併により新設されたドイツ・オリンピック・スポーツ連盟(DOSB)から名誉会長に任命されたが、IOC会長就任後の2013年9月16日、辞任した。 複数のIOC委員会で委員長を務めたほか、2006年、地元ドイツで開催されたサッカー・ワールドカップでは組織委員会の監査役会の構成員。2011年、女子サッカーのワールドカップでは組織委員会の管財委員会の委員を務めた。 2013年9月10日にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会で、ジャック・ロゲの後任として第9代IOC会長に選出された。その際にクウェートの政治家でスポーツ団体役員のアフマド・アルファハド・アルサバ―(en)が有力支援者となっていたことから、会長選挙の直前になってIOC倫理委員会の調査が入った。 2016年10月20日に、筑波大学で講演した折に筑波大学の名誉博士号が授与された。
※この「スポーツ団体の職歴」の解説は、「トーマス・バッハ」の解説の一部です。
「スポーツ団体の職歴」を含む「トーマス・バッハ」の記事については、「トーマス・バッハ」の概要を参照ください。
- スポーツ団体の職歴のページへのリンク