スターソフと「小ロシア」交響曲
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「スターソフと「小ロシア」交響曲」の解説
チャイコフスキーは1873年1月7日、サンクトペテルブルクにあるリムスキー=コルサコフ宅での集まりにおいて、「小ロシア」という愛称で呼ばれるようになる自作の交響曲第2番の終楽章を演奏して聴かせている。これは全曲の公式初演よりも前のことであった。彼は弟のモデストに次のように書き送った。「その場の全員が私を引き裂いて歓喜の破片にしてしまわんばかりだった - それにリムスカヤ=コルサコヴァ氏は泣きながら曲をピアノ・デュオ用に編曲させて欲しいと私に頼んだのだ。」著名なピアニストであり自ら作曲、編曲もこなしたリムスカヤ=コルサコヴァは、夫の作品やチャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』をはじめその他のロシア5人組の作品を編曲していた。ボロディンも同席しており、この作品を認めただろうと思われる。他にその場に居たのがウラディーミル・スターソフであった。聴いたばかりの楽曲に感銘を受けたスターソフは、チャイコフスキーに次は何を書こうと考えているのかと尋ねた。そして、間もなくチャイコフスキーは彼の影響を受けて幻想序曲『テンペスト』を作曲することになるのである。 「小ロシア」が5人組から愛されたのは、チャイコフスキーがウクライナの民謡を旋律素材として利用したから、という単純な理由からではなかった。彼が特に両端楽章において、ロシア民謡が持つ独特の個性をして交響曲の形式を作らしめたためである。これこそが5人組が全体としても、個々としても努力して目指した目標だった。音楽院の基礎講義を受けたチャイコフスキーが、ロシア5人組の面々よりもそうした発展をより長く凝縮した形で維持することができたのである。比較は不公平にも見えなくはないが、チャイコフスキー研究の権威であるデイヴィッド・ブラウンが指摘するところによると、もしムソルグスキーがチャイコフスキーの受けたものに匹敵する学校教育を受けていれば、「小ロシア」交響曲のフィナーレと時間配分が似ている組曲『展覧会の絵』の終曲「キエフの大門」において同じようなことが達成されていただろうという。
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