ジャパンプロレス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:52 UTC 版)
「アニマル浜口」の記事における「ジャパンプロレス時代」の解説
1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。浜口自体に無類の強さという感じは無かったが、タッグとして主役級の相棒(タッグパートナー)を引き立てる“助演”が上手く、ジャイアント馬場からも評価されていた。これは浜口とタッグを組んだグレート草津、マイティ井上、ラッシャー木村、寺西勇、長州力、キラー・カーン、谷津嘉章らが異口同音に浜口を評する言葉である。馬場は、ジャンボ鶴田vs浜口のシングル戦のTV解説時、最初に「全日本軍の実力者、負ける要素は何もありません、鶴田、鶴田!」と言った実況アナウンサーの倉持隆夫に「負ける要素は何もありませんと言いましたけどね、そうすると浜口には勝つ要素が何もないということになりますけど、これだけのファイトがあるんですからね油断はできませんよ」とたしなめたことがあり、試合終了後も浜口のファイトを絶賛していた。1985年7月18日には寺西とのコンビでアジアタッグ王座を獲得するが、同年10月7日に行われた6人タッグマッチ(長州・谷津と組み鶴田&天龍&石川と対戦)で、鶴田のブレーンバスターを受け失神KOしてそのまま欠場し、寺西は保永昇男を浜口の代役パートナーとして指名した。 1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。浜口の引退は、新日からジャパンプロレスに移籍し全日に参戦する際に交わした、「トラブルを起こした場合は引退する」という約束を貫くため(キラー・カーンも同様)、また体調を崩しシリーズ欠場中でもギャラを支払ってくれたジャイアント馬場への恩義が影響していると思われる。引退セレモニーで「この四角いリングの中に魂があったんですよ。ありがとうプロレス。さよならプロレス」という浜口節と10カウントで締めた。
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