ジャクソン=ハームズワース遠征
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「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「ジャクソン=ハームズワース遠征」の解説
1895年9月から1896年6月、ブルースはベン・ネビス山山頂の気象観測所で働き、科学的手続きや気象観測機器に関してさらに経験を深めた。1896年6月、再度ミルの推薦で、その地位を離れてジャクソン=ハームズワース遠征に加わった。その遠征は北極海のフランツ・ジョゼフ・ランドで3年目に入っていた。フレデリック・ジョージ・ジャクソンが率いており、新聞界の大立者アルフレッド・ハームズワースが資金を出して、1894年にロンドンを出港していた。20年前にオーストリアの遠征隊が発見したが、まだ適切な地図ができていなかったフランツ・ジョゼフ多島海の詳細な測量を行っていた。ジャクソン隊は、多島海の諸島では最も南のノルトブルク島のケープ・フローラに基地を置いていた。遠征船ウィンドウォードが定期的に往復して物資を補給しており、ブルースもその船で1896年6月9日にロンドンを出港した。 ウィンドウォードは7月25日にケープ・フローラに到着した。ブルースは、ジャクソンの遠征隊に加えて、思いがけずフリチョフ・ナンセンとその仲間であるイェルマー・ヨハンセンを見つけた。この2人のノルウェー人は、北極点に向けてその船であるフラム号を離れてから1年間以上、氷の上で生活してきていた。数千平方マイルある北極海で人が住んでいる地点に来るという、全くの偶然だった。ブルースはナンセンに会ったことをミル宛ての手紙に書いており、その著名なノルウェー人と知り合いになれたことは、将来的に多くの忠告や激励を得られることになった。 ブルースは、ケープ・フローラにいた間に、大変な気象条件になることが多かった中で、約700種の動物学的標本を集めた。ジャクソンに拠れば、「温度計がセロ点以下に下がった中で、氷のように冷たい水に手を出すのは楽しい仕事ではなく、また夏に雪とぬかるみと泥の中を動物を探して何マイルもトボトボ歩くのは大変だったが、ブルース氏がそれをやっていた。」と記していた。ジャクソンはノルトブルク島の北端、座標で北緯80度55分にある岬をケープ・ブルースと名付けた。ジャクソンは、ブルースが自ら集めた標本について所有者としての態度をとることに不満だった。ブルースは遠征隊の他の発見物と共にそれらを大英博物館に預けることを拒否した。この「科学的うぬぼれに向かう傾向」と対人関係を良くする技術の欠如とが、ブルースの性格的欠陥であり、その後の人生でも災いすることがあった。
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