サレルノの転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:43 UTC 版)
「パルミーロ・トリアッティ」の記事における「サレルノの転換」の解説
イタリアが第二次世界大戦に参戦した後はソ連を通じてパルチザンへの支援を行う。そのためもありトリアッティは「スターリンのイタリア人」と呼ばれた。イタリアが連合国軍に降伏し、ムッソリーニがドイツの支援の下でイタリア北部に成立したイタリア社会共和国(サロ政権)の元に去った1944年にイタリアへ戻り、イタリア王国のピエトロ・バドリオ政権で新たに設置された副首相の座にトリアッティは就き、その指導のもとイタリア共産党をいわゆる「サレルノの転換」へ導く。 この政策転換は、第二次世界大戦後のイタリアの改革を議会制民主主義的手段により支援し、社会主義社会を実現するために暴力革命を引き起こすことを否定する、議会制民主主義国であるアメリカやイギリスなどの連合国軍占領下のイタリアにおける、合法政党への現実的戦略に基づいた転換であった。これは1945年4月のイタリア社会共和国崩壊とドイツ軍の降伏後の占領下における、共産主義者の影響下にあったパルチザンの武装解除につながっただけでなく、後のキリスト教民主主義やイタリア社会党と連立政権の樹立や、その後のイタリア共産党の勢力拡大につながる。 しかし実際は、「スターリンのイタリア人」と呼ばれたトリアッティは、連合軍が治安維持を兼ねてパルチザンやレジスタンスを野放しにしており、連合軍が撤収した後の町でRSI政府の支持者に報復的な虐殺を繰り広げており。特に反政府運動で最大規模を誇る共産主義勢力はトリアッティの指導下にあり、RSI関係者への無差別テロを繰り広げていた。
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