サブラー・シャティーラ事件とは? わかりやすく解説

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サブラー・シャティーラ事件

(サブラ・シャティーラ事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/23 05:55 UTC 版)

サブラー・シャティーラ事件の記念碑

サブラー・シャティーラ事件アラビア語:مذبحة صبرا وشاتيلا)は、1982年9月16日から18日の間に行われたレバノンの親イスラエル政党「ファランヘ党」などで構成される民兵組織「レバノン軍団」によるパレスチナ難民大量虐殺事件のことである。

背景

1975年から始まったレバノン内戦は泥沼の様相を呈していた。そんな中、1982年6月6日にPLOを撤退させるためと称して隣国イスラエルがレバノンに侵攻する。イスラエルは、レバノンを親イスラエル国家にしようという思惑があり、反シリアでイスラエルと懇意だったバシール・ジェマイエル英語版をレバノン大統領に当選させることに成功する。

イスラエルの目論見は成功したかに見えたが、1982年9月にジェマイエルは何者かに爆弾暗殺される。イスラエルはこれをPLO残党の犯行とみなした。ジェマイエル殺害に憤慨した民兵組織「レバノン軍団」は、パレスチナ人への報復を実行する。

事件発生

1982年9月16日午後6時、イスラエル国防軍の部隊がレバノンのサブラーとシャティーラにあったパレスチナ難民キャンプへ向けて照明弾を発射(レバノン軍団の要請に応えたものであるとされる[1])、これを合図としてレバノン軍団の民兵たちが一斉にキャンプに突入、虐殺を開始した[2]

虐殺は2日間に及び、犠牲者数は762人から3500人と言われている[3]

この事件の際、ベイルートで取材をしていた日本人ジャーナリスト広河隆一は当時をこう回想している。

「イスラエルがベイルートを完全に制圧したと発表したのは、82年9月16日午後だったと思う。翌17日、私はイスラエル赤三日月社で働いていたドイツ人医師の脱出を手伝った。その人を私の助手ということにして、一緒にベイルートを出たのである。包囲網はイスラエル軍とレバノンの右派キリスト教民兵によって、十重二十重とえはたえになっており、何十という検問所が設けられていた。最後の検問所で追い返されようとしたとき、私は長い間使っていなかったヘブライ語で交渉し、通過に成功した。医師をベカー高原の病院に降ろしたあと、すぐベイルートに戻った。その日がイスラエルの新年で、そのためイスラエル軍のすべての検問所が閉鎖されることになっていたからである。
その翌日、私はパレスチナ・キャンプに入った。早朝から気持ちが重かった。ベッドに体がくっついたようになっていた。イスラエル軍がベイルートに侵攻してから、すぐにパレスチナ・キャンプは封鎖されたことを私は知っていた。ジャーナリストも中には入れなかった。何がキャンプで起こっているのか、知る方法はなかった。いやな予感がした。パレスチナ人狩りによって、市街地から連れ去られたパレスチナ人の消息もわからなかった。
北のサブラ・キャンプの入り口は、イスラエル軍の戦車によって封鎖されていた。入れろと叫んで、プレス・カードを見せたが、戦車の上のイスラエル兵は銃を構えて、手で私に立ち去れという仕草をした。そのとき銃声が連続して聞こえていたが、交戦の時の音ではなく、一方からの音だけだったことが、不安を増した。
真っ黒に焼けただれた松の林の横を通って、シャティーラ・キャンプの南に出た。人影はほとんどなく、砲撃の直後らしく黒い煙が上がっていた。
キャンプに足を踏み入れた。しんとしていた。余りに不気味で、出ようとすると入り口のところで一人の男が近づいてきて、首を切断するまねをして、中で殺戮が起こっていると言った。彼は足早に消えた。」 — 広河隆一、『パレスチナ/瓦礫の中のこどもたち』(徳間文庫 2001年)pp.155-156

事件後

事件が明るみに出るや、パレスチナ、イスラエル、そして国際社会全体に大きな衝撃を与えた。

1982年12月16日、国連総会はこの事件を「ジェノサイド」として非難する決議を反対なしの123か国の賛成多数で可決した(アメリカ、イスラエル、カナダイギリスなどは棄権。日本は賛成[4])。

虐殺を手助けしたとも言えるイスラエルの国内でも共産党やできて間もないピース・ナウなどの左派勢力から批判が噴出。しかし、当時国防相として最高責任者の地位にあったアリエル・シャロンは「イスラエルの手は汚れていない」などと言った。しかし、結局シャロンと参謀総長を務めていたラファエル・エイタンが責任を取らされ辞職した。

脚注

  1. ^ Hirst, David (2010). Beware of small states: Lebanon, battleground of the Middle East. Nation Books. p. 157. "The carnage began immediately. It was to continue without interruption till Saturday noon. Night brought no respite; the Phalangist liaison officer asked for illumination and the Israelis duly obliged with flares, first from mortars and then from planes."
  2. ^ New York Times, 26 September 1982. in Claremont Research p. 76
  3. ^ Remembering Sabra & Shatila: The death of their world - Region - World - Ahram Online at the Wayback Machine (archived 2014-10-06)
  4. ^ UNBISnet at the Wayback Machine (archived 2011-06-04)

参考文献

関連項目




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