ゴート軍・進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 03:42 UTC 版)
「アブリットゥスの戦い」の記事における「ゴート軍・進撃」の解説
クニウァを首領とするゴート軍の先鋒部隊はアルガイス(Argaith)とグンテリック(Gunteric)が指揮を取っていたと考えられ、ゴートの先鋒部隊はマルキアノポリス(現:デヴニャ)を包囲し住民より多額の賠償金を得た。マルキアノポリスでの成果を得て、ゴート軍は更に南下してフィリッポポリス(現:プロヴディフ)を包囲した。 一方のクニウァ自身が率いるゴート本軍はモエシア属州を攻撃したが属州総督トレボニアヌス・ガッルスに防がれたため、ドナウ川と交差するオエスクス(Oescus)方面へ侵攻、途中にあるニコポリス・アド・イストルム(Nicopolis ad Istrum)を略奪すべく南下したが、デキウス率いるローマ軍はこれを撃退した。ただし、決定的な打撃とはならなかった。デキウス軍に敗れたゴート軍はバルカン山脈を通ってさらに南へ逃れたため、デキウス軍はフィリッポポリスを救出する目的もあり、ゴート軍を追跡した。 デキウス軍がアウグスタ・トライアナ(現:ベロエ)に休息のため駐屯していた間に、フィリッポポリスはゴート軍の攻撃の前に陥落して、10万ともされる市民が殺戮された。また、マケドニア属州総督ティトゥス・ユリウス・プリスクス(en)はクニウァの支援を受ける形でローマ皇帝を僭称した。プリスクスはクニウァらゴート人らと支配地域を分割するつもりであったとされる。 デキウスは、ゴート族を撃破して、捕虜となったローマ人や収奪された財貨を取り戻すことを優先する方針を取り、息子で共同皇帝であったヘレンニウス・エトルスクスやトレボニアヌス・ガッルスが率いる軍と合流した。
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