ケイローおよびベルモントの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 01:40 UTC 版)
「テネシー軍」の記事における「ケイローおよびベルモントの戦い」の解説
詳細は「ベルモントの戦い」を参照 1861年9月、北軍西部軍管区(Western Department)司令官であるジョン・C・フレモント少将の部下として、グラント准将は南東ミズーリ小軍管区の司令官に任命され、ケイローにその司令部を置いた。戦争中グラントの部下として彼を支援したジョン・アーロン・ローリンズは、「この時から...テネシー軍の組織拡大は始まった」と後に述べている。数日後、南軍は突如ミシシッピ川に面するケンタッキー州コロンバスを占領した。これに対応するため、グラントは小さな部隊を動かしてテネシー川とオハイオ川の合流点であるパデューカを奪取した。グラントのこの機先を制した行動は、南軍が戦略的に重要な都市を占領することを未然に防いだ。パデューカは直ちにチャールズ・F・スミス准将が指揮する別の部隊の管轄となり、この部隊はオハイオ川とカンバーランド川の合流点であるケンタッキー州スミスランドを占領した。 ローリンズによると、グラントの部隊の「戦闘という名に値する最初の活動」は、ミズーリ州フレデリックタウンの戦い(Battle of Fredericktown)であり、グラント隷下のいくつかの部隊が、M.J.トンプソン(M. Jeff Thompson)の南軍部隊を打ち破るのに協力した。グラント自身が指揮した最初の戦闘は、11月7日のベルモントの戦いであった。ベルモントはミシシッピ川を挟んでコロンバスの対岸に位置する都市である。グラントは、ジョン・A・マクラーナンド准将と共に、約3,000名の兵士をケイローから水路ベルモントに動かし、そこの南軍キャンプを攻撃し分断した。しかし、その後南軍の反撃に会い、グラントは部隊を輸送船に戻すために戦うこととなった。この最初の戦闘でのグラントの部隊の損害は約500人であり、南軍の損害も同程度であった。グラントは南軍の反撃に苦しだが、新聞は彼のことを好意的に記事にした。ローリンズの報告によると、この戦闘はグラントに、「戦力が十分であればいつでも戦うべきであるという信念」を与えた。11月にはまた、フレモントがセントルイスで指揮官を解任され、ヘンリー・ハレックが後任となり、その部隊はミズーリ軍管区(Department of the Missouri)と命名された。
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