キエフ・ルーシ時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 10:19 UTC 版)
「東スラヴ人」の記事における「キエフ・ルーシ時代以前」の解説
詳細は「ルーシ・カガン国」を参照 南方に居住する東スラヴは8世紀からハザール・カガン国に貢ぎ物を差し出さなければならなかった。ハザールはテュルク諸語のハザール語を話す民で、8世紀後半か9世紀に支配階級がユダヤ教に改宗し、南ヴォルガ川流域及びカフカース地方を支配していた。おおよそ同時期に、北方のイリメニ・スロヴェーネ族Ilmen Slavs|(en)とクリーヴィチ族は当時バルト海から東ローマ帝国までの貿易路を抑えていたルーシ・カガン国のヴァリャーグによって支配されていた。ルーシ・カガン国はヴァリャーグの国家ではなく、現地の東スラヴ人の国家であるという説もある(国家群の民族構成は、ノース人、東スラヴ人、フィン人、テュルク系民族などであるが、ヴァリャーグ以外の活動は資料上あまり見られない。多民族国家であるため、混血していたとも言われている)。 当時の東スラヴ人の中心都市はノヴゴロド、イズボールスク、ポロツク、グニョーズドヴォ、サルスコエ・ゴロディシュチェ、及びキエフなどである。考古学の研究によれば、これらの都市が登場するのは10世紀に入ったところで、ノヴゴロドのスラヴ人とフィン人がヴァリャーグをスカンディナヴィアに追い返した直後である。ルーシ・カガン国は、その後衰退し、最後は発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。
※この「キエフ・ルーシ時代以前」の解説は、「東スラヴ人」の解説の一部です。
「キエフ・ルーシ時代以前」を含む「東スラヴ人」の記事については、「東スラヴ人」の概要を参照ください。
- キエフルーシ時代以前のページへのリンク