キエフ・ルーシ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 10:19 UTC 版)
詳細は「キエフ大公国」を参照 その後、スラヴ人の招聘によりヴァリャーグがノヴゴロドに戻り、首都をキエフに移した。これについては、ヴァリャーグは招聘されたのではなく侵略し、キエフの現地の公朝(恐らくはポリャーネ族の公朝)を倒して政権を乗っ取ったのを、のちに権力の正当化のために外来王招聘説を取り入れて年代記を作成したものであるという説もある。ヴァリャーグ人の君主と東スラヴ人の貴族・国民からなるリューリク朝キエフ大公国は、キエフを拠点にコンスタンティノポリスに対し何回か遠征を行った。 当初、ヴァリャーグはスラヴ人の支配階級であったが、彼ら10世紀末までに急速にスラヴ化していた。スヴャトスラフ1世(在位945年 - 972年)は初めてスラヴ風の名前を持つルーシの君主で、このころにはスラヴ化がかなりの度合いで進んでいたことを物語っている(建国者はヴァリャーグを構成するルーシ族であるが、スラヴ系のルーシ人とは異なっており、ノルマン系であったものがスラヴ人と混血し、同化されたものと見られているものの、定説とはなっていない)。
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