カーライル選挙区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 22:51 UTC 版)
「ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)」の記事における「カーライル選挙区」の解説
カンバーランドのカーライル選挙区(英語版)は伝統的にカーライル伯爵家(ハワード姓)、マスグレイヴ家とラウザー家の間で争われており、第3代ポートランド公爵が爵位を継承した時点ではラウザー家当主の第5代準男爵サー・ジェームズ・ラウザー(英語版)(後の初代ロンズデール伯爵)が1議席を支配し、残りの1議席の支配も目指していた。ラウザーは1761年にトーリー党の第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの娘と結婚しており、カーライルでは自身が1759年よりカンバーランド統監(英語版)を務めていたほか、自派の人物を副統監、カーライル市裁判所、カーライルの自治体(corporation)に配置するなど支配を着実に進めていた。 ポートランド公爵はラウザーの自治体支配を破れなかったため、代わりに自由市民(freemen)に支持を訴え、1768年イギリス総選挙でラウザーがカーライルと何のつながりもないスコットランド人ジョン・エリオットとジョージ・ジョンストン(英語版)を推すという失策を犯したため2議席ともにポートランド公爵の推す候補(ポートランド公爵の弟エドワード・ベンティンク卿とマスグレイヴ家のジョージ・マスグレイヴ(英語版))が当選した。 カーライル伯爵家は1769年に5代伯爵フレデリック・ハワードが成人すると巻き返しを図り、1774年イギリス総選挙では3月にポートランド公爵とラウザーが1議席ずつ指名するという妥協がなされた状況に割り込み、2人による指名への承認を遅延したことでポートランド公爵から譲歩を引き出し、結果としてはカーライル伯爵とラウザーが1議席ずつ指名した。 1780年イギリス総選挙ではハワード家本家のノーフォーク公爵家が第5代カーライル伯爵家の頭越しに介入したことでカーライル伯爵が撤退を余儀なくされ、サリー伯爵チャールズ・ハワードが当選した。以降第3代ポートランド公爵がカーライル選挙区に介入することはなくなった。
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