カートレット家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 03:38 UTC 版)
清教徒革命中、王党派として行動したジャージー島の政治家ジョージ・カートレット(英語版)(1610頃–1680)は、1645年5月9日にイングランド準男爵位の"ジャージー島におけるMeteschesの"準男爵(Baronet "of Metesches, in Jersey")に叙せられた。王政復古後、彼は初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドが主導する復古王政政府(英語版)で海軍主計官(英語版)を務めたり、王弟ヨーク公ジェームズ(ジェームズ2世)からニュージャージー植民地を譲り受けて同地の領主になり、ニュージャージーという名前の名付け親になるなどした。 初代準男爵の死後にはその同名の孫であるジョージ・カートレット(1669–1695)が第2代準男爵を継承した。さらにその翌年の1681年10月19日にはイングランド貴族爵位ベッドフォード州のハウネスのカートレット男爵(Baron Carteret of Hawnes, in the County of Bedford)に叙せられた。またカートレット家のニュージャージーの権利は彼の代にウィリアム・ペンらクエーカーたちに売却して処分している。 その息子である第2代カートレット男爵ジョン・カートレット(1690–1763)は、ホイッグ党の主要政治家の一人として政界で活躍し、首相ロバート・ウォルポールと政権内で反目し合い、ウォルポール内閣が倒閣された後に成立した初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンの内閣を実質的に主導したが、その次のペラム内閣下で議会の批判を受けて失脚した。彼の母グレイス・カートレット(1654–1744)は、1715年1月1日に実家バース伯爵(英語版)グランヴィル家の家名に由来するグランヴィル女伯爵(Countess Granville)、および結婚後の家名に由来するカートレット女子爵(Viscountess Carteret)に叙されており(いずれもグレートブリテン貴族爵位)、1744年10月18日に彼女が死去するとこれらの爵位もジョン・カートレットが継承したため、以降カートレット男爵位はグランヴィル伯爵位の従属爵位となった その息子である3代グランヴィル伯ロバート・カートレット(1721–1776)には子供がなく、彼の死とともにグランヴィル伯位以下全保有爵位が消滅した。
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