カーター大統領補佐官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:47 UTC 版)
「ズビグネフ・ブレジンスキー」の記事における「カーター大統領補佐官」の解説
1976年の大統領選においてカーターの外交政策アドバイザーを務め、カーター政権発足後に国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任。反共主義者ながら、一方で中華人民共和国との米中国交正常化に取り組み、後にG2論者 にもなってることから親中派であったとされる。 ハト派の多い民主党の中では異色のタカ派(リベラルホーク)でもあり、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するムジャヒディンの支援やペルシャ湾をアメリカの権益と見做して中東への軍事介入も掲げたカーター・ドクトリン(英語版)を策定した。政権内ではサイラス・ヴァンス国務長官と外交政策を巡って対立することが多く、ヴァンスは中華人民共和国との会談の場でも疎外されるようになり、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の対応をめぐって対立は決定的になった。結局、カーターの信任を勝ち取ったのはブレジンスキーで、ヴァンスは政権から追い出されるかたちで1980年に辞任することになった。 後任の国務長官には、故郷ポーランドからの移民の子であるエドマンド・マスキー上院議員を支持する。後にはマスキーを民主党大統領候補に推している。 さらに、レフ・ヴァウェンサをリーダーに、ソ連による支配に対抗したポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を積極的に支持し、ポーランド出身だった当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合っていたため、事実上1989年の東欧革命の最大の黒幕ともいわれている。
※この「カーター大統領補佐官」の解説は、「ズビグネフ・ブレジンスキー」の解説の一部です。
「カーター大統領補佐官」を含む「ズビグネフ・ブレジンスキー」の記事については、「ズビグネフ・ブレジンスキー」の概要を参照ください。
- カーター大統領補佐官のページへのリンク