カーター政権への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:40 UTC 版)
「リチャード・ホルブルック」の記事における「カーター政権への参加」の解説
1976年の夏に『フォーリン・ポリシー』編集部を離れ、同年秋の大統領選挙に向けて選挙戦を戦っていた民主党の大統領候補、ジミー・カーター前ジョージア州知事の陣営に加わり、国家安全保障政策の担当者となった。選挙戦では、対立候補である現職のフォード大統領とのディベート、特に外交政策に関するディベートの準備などでカーターを補佐し、カーター陣営の勝利に貢献した。 カーター政権誕生後は、東アジア・太平洋担当国務次官補に任命され、1977年3月31日から1981年1月13日まで同職を務めた。ちなみに東アジア・太平洋担当国務次官補の職は、ホルブルックが「外交政策の師」と仰ぐW・アヴェレル・ハリマンやディーン・ラスク、フィリップ・ハビブらも経験しているポジションであり、また35歳での就任は、同職の前身である極東担当国務次官補のポストが設置されて以降、史上最年少での就任であった。 在職中はサイラス・ヴァンス国務長官の主要なアドバイザーの1人として活躍し、東アジア・太平洋地域における東側諸国との関係改善(デタント)や、1978年12月に実現した中華人民共和国との国交樹立・完全国交正常化において主導的な役割を担った。また、当時国際問題にもなっていたインドシナ難民の問題にも取り組み、特に難民問題には生涯を通じて取り組んでいくことになった。
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