カントリー音楽における成功:1966年 - 1969年
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1966年、リン・アンダーソンは、ジェリー・レイン (Jerry Lane) とのデュエットによるデビュー・シングル「For Better or for Worse」をリリースしたが、チャートには入らなかった。初めてチャート入りしたシングルは、チャート・レコードからの3枚目のシングル「Ride, Ride, Ride」で、この曲はカントリー・トップ40入りを果たした。最初の大ヒットとなったのは、翌1967年に出したシングル「If I Kiss You (Will You Go Away)」で、この曲は『ビルボード』誌のカントリー音楽チャートで5位まで上昇した。これに続いて、「Promises, Promises」がトップ5入りを果たし、この曲を収めた同名のアルバム『Promises, Promises』からは、「No Another Time」も1968年にトップ10入りをした。続いて、同じころカントリー歌手として2曲のトップ10入りヒット曲(1966年の「Mama Spank」と、ボビー・ベア (Bobby Bare) とノーマ・ジーン (Norma Jean) とのトリオによる1967年の「The Game of Triangles」)を出していた母リズ・アンダーソンとのデュエットで、「Mother May I」をリリースし、トップ25入りを果たした。 1967年、リン・アンダーソンは、テレビ番組『The Lawrence Welk Show』のレギュラー出演者となり、ローレンス・ウェルク (Lawrence Welk) が率いる興行ザ・ウェルク・ロード・ショー (the Welk Road Show) の巡業に加わった。この巡業の経験は、後にアンダーソンにとって大きな利益をもたらした。ウェルクの興行は広い聴衆にアピールするものであり、アンダーソンはポップ・チャートでも成功を収める足がかりを得た。1969年には、彼女の人気はいよいよ高まり、ウェルクの番組でもレギュラー出演をやめ、ときどきゲストとして登場するようになった。1968年、アンダーソンは、ソングライターで音楽プロデューサーのグレン・サットン (Glenn Sutton) と結婚した。サットンは、後にコロムビア・レコード所属となってからの彼女のために、数多くのレコードをプロデュースし、曲も提供することになる、ふたりの結婚は9年間続いた。アンダーソンは、チャート・レコードにおける最大のヒット・シングル「That's a No No」を放ち、この曲は1969年に『ビルボード』誌のカントリー音楽チャートで2位まで上昇した。その直後に、彼女はレーベルから離脱し、1970年にコロムビア・レコードと契約した。その後もチャート・レコードは、アンダーソンが吹き込んでいたシングルのリリースを1971年末まで続け、その中にはトップ20入りした「He'd Still Love Me」、「I've Been Everywhere」、「Rocky Top」、「It Wasn't God Who Made Honky Tonk Angels」、「I'm Alright」が含まれていた[要出典]。
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