カルミナ・ブラーナの成功
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「カール・オルフ」の記事における「カルミナ・ブラーナの成功」の解説
オルフの地元であるバイエルン州のベネディクトボイエルン(英語版、ドイツ語版)にあるベネディクトボイエルン修道院(英語版、ドイツ語版)の蔵書が19世紀初頭に調査され、おそらく11世紀から13世紀ごろまでにこの修道院を訪れたと思われる様々な宗教者たちによって作られた詩歌集が発見された。内容は、恋の歌や酒の歌、そして社会への怒りや愚痴などの世俗的なもので、その詩歌集は「カルミナ・ブラーナ」と名付けられた。 1934年、全部で300篇にも及ぶカルミナ・ブラーナを目にしたオルフは、強く創作意欲を刺激され、その中から24篇を選んで大規模な世俗カンタータを作曲した。 1937年6月8日、フランクフルト・アム・マインの市立劇場で初演されたカンタータ『カルミナ・ブラーナ』は大成功を修めドイツ各都市で上演された。 しかし、第2次世界大戦の勃発によってドイツと他国との文化の交流が断絶したため、カール・オルフの名は同世代のイベール (1890-1962)、プロコフィエフ (1891-1953)、オネゲル (1892-1955)、ミヨー (1892-1974)、ヒンデミット (1895-1963)(ドイツ人だが1938年亡命))等よりも国外で知られるようになるのは遅かった。国際的に名が知られるようになったのは1954年で、59歳頃でレコード化された後である。カルミナ・ブラーナの成功によって自信を得たオルフは、出版社ショットに寄せた手紙の中で、「今までの作品すべて破棄して欲しい。と言うのは私にとってカルミナ・ブラーナが本当の出発点になるからである」と記している。
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