カルマト派の反乱
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899年、サラミーヤで政変が起こり、イスマーイール派は再び分裂を起こした。サラミーヤの中心部を掌握したイスマーイール派の少数派の指導者が、ムハンマド・イブン・イスマーイールはすでに死んでいて、サラミーヤの今の指導者こそが再び姿を現した正当なイマームの後継者であるという主張を展開し始めた。カルマトとアブダーンはこれに公然と反対し、サラミーヤ政権との関係は決裂した。アブダーンは暗殺され、カルマトはいったん身を隠したが、後悔して主張を改め、ファーティマ家のウバイドゥッラー・アル=マフディー (873年–934年)がイマームであるという教えを伝道するようになった。ウバイドゥッラーは909年に北アフリカでファーティマ朝を建国することになる。 しかしカルマトが転向したあとも、かつての彼の支持者たちはカルマト派を名乗って活動を続けた。彼らの最大の拠点はバーレーンであった。この時代のバーレーンは現代のバーレーン王国が存在するバーレーン島のみならず、東アラビアの広大な領域を指していた。9世紀末まではアッバース朝の統治下にあったが、バスラで発生したザンジュの乱により、バグダードからの統制力は弱まっていた。アブー・サイード・アル=ジャンナービー率いるカルマト派は899年にバハレーンの主要都市ハイルとアハサーを占領し、理想国家の建設を目指した。 カルマト派は、ある学者が「恐怖の世紀」と呼んだような混乱をクーファで引き起こした。彼らはマッカ巡礼を迷信の類と考えていたため、バーレーンを拠点としてアラビア半島中の巡礼路を襲った。906年にはマッカから帰る途中の巡礼団を襲い、2万人の巡礼者を虐殺した。 アブー・ターヒル・アル=ジャンナービー (在位: 923年–944年)の時代、カルマト派は927年にバグダードを襲い、930年にマッカとマディーナを占領した。この二大聖地を占拠した彼らは、ザムザムの泉にハッジ巡礼者の死体を投げ込んで冒涜し、黒石をアハサーへ持ち去った。これは身代金を目的とした行動で、アッバース朝は952年に莫大な金を支払って黒石を取り戻した。 カルマト派の反乱と聖地の冒涜は、イスラーム世界を震撼させるとともに、アッバース朝の権威を地に墜とすことになった。アッバース朝はほとんど彼らに対応することができず、カルマト派は10世紀の大部分にわたりペルシア湾および中東最強の勢力であり続け、通商の要地であるオマーン海岸地帯を支配し、バグダードのアッバース朝カリフやカイロのファーティマ朝イマーム(カルマト派はその正統性を認めていない)から貢納金をせしめていた。
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