カメルーン戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:28 UTC 版)
「アフリカ戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「カメルーン戦線」の解説
詳細は「カメルーン戦線(ドイツ語版、英語版)」を参照 ドイツ領カメルーンには約3,000名のアフリカ人兵士に支援された約1,000名の駐留ドイツ軍がいた。イギリス軍はイギリス領ナイジェリアから3個縦隊で東のカメルーンへ侵攻した。しかし、3つの部隊はすべて、その地形、悪路、およびドイツ軍の待ち伏せ攻撃などが組み合わさり撃退された。フランス軍はチャドから南のカメルーンへ侵攻し、クッセリ(英語版)を占領した(クッセリの戦い(英語版))。9月初旬、ベルギー=フランス合同軍は沿岸のリンベを占領した。この部隊は移動砲台として4隻のイギリスおよびフランス巡洋艦の援助をうけ、1914年9月27日に植民地首都ドゥアラを占領した(Naval operations of the Kamerun Campaign)。 ドイツ軍の抵抗地区はヤウンダ(Yaounda)のみとなった(第一次ヤウンダの戦い(英語版))。ベルギー=フランス合同軍部隊はドイツが敷設した鉄道路を内陸部へたどっていき、ドイツ軍の反撃を撃退し、11月にはヤウンダは占領された(第二次ヤウンダの戦い(英語版))。生き残ったドイツ兵のほとんどは中立地帯であるスペイン領ギニア(スペイン語版、英語版)(のちの赤道ギニア共和国)のリオ・ムニへ脱出した。カメルーンにあった最後のドイツ軍要塞は武器弾薬を使い果たし、1916年2月に降伏した。
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