エーゲのキュベレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:14 UTC 版)
キュベレー崇拝はアナトリアとシリアの内陸部からクレータ島他のエーゲ海の島々やギリシア本土にまで拡がった。アテーナイでは特に歓迎された。ストラボン(十巻 x, 3:18)の観察は役に立つ。 他の全てのものと同様に、アテーナイの人々は外来の物事を歓待した。神々を崇拝することにおいてもそうであった。彼等は極めて多くの外来の宗派を歓迎したのだ……デモステネスによってもたらされたプリュギアのそれ(レアー/キュベレーのこと)をも。彼は Aeskhines の母と Aeskhines 自身に非難を浴びせ、彼女によって秘儀を授かると今度は彼女と共におり、彼女と友にディオニューソスの行進の先頭に立ち、evoe saboe、hyes attes, attes hyes と何度も叫び、これらの言葉は母レアーのサバツィオの儀式のものであった。 (叫び声については『金枝篇』49章3「アッティス、アドニス、豚」参照。ジェームズ・フレイザーはhyesを「豚」の意味だとしている。でも読める。) アレキサンドリアではキュベレーはギリシア系住民によって「諸母の母、我等が祈りを聞き給う救世主」、「諸母の母、祈りが届くお方」として崇拝された。小アジア、地中海沿岸での商業活動の中心の一つであったエペソスでは、紀元前10世紀から早くもキュベレーは崇拝され、エクスタシーを伴う市の祭 (Ephesia) が彼女を讃えて行われた。 この女神はトラーキア北方の家父長的なスキュティア(スキタイ)人には歓迎されなかった。ヘロドトス(4.76-7)を読むと、ギリシア中を旅し、様々な知識を得たスキュティア人アナカルシス (Anacharsis、紀元前6世紀)が異教マグナ・マテルを紹介すべく企んでいるとして従者のスキュティア人に殺されたことを知ることができる。
※この「エーゲのキュベレー」の解説は、「キュベレー」の解説の一部です。
「エーゲのキュベレー」を含む「キュベレー」の記事については、「キュベレー」の概要を参照ください。
- エーゲのキュベレーのページへのリンク