エトルリア工場への移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 03:51 UTC 版)
「ウェッジウッド」の記事における「エトルリア工場への移転」の解説
このような中でジョサイアは再び工場を移転することにし、ニューカッスル・アンダー・ライム(Newcastle-under-Lyme)とハンレー(Hanley)の中間の地を選んだ。この土地はイタリア南部の地にちなんでエトルリアと命名され、工場名もエトルリア工場となった。1769年の操業開始後もしばらくはブリック・ハウス工場で低価格の実用品の生産が続けていたが、しばらくすると全製品が移管されてブリック・ハウスは閉鎖された。 この頃、在庫の増加が資金繰りを圧迫して経営を危険にさらすことをジョサイアは初めて理解し、当時としては先進的な原価計算を取り入れるようになった。これによって高級品の生産に対していたずらにコストが増加してしまうことを防いだ、と考えられている。 エトルリア工場では、まずブラック・バサルト(Black Basalt)が開発された。これは、当時スタフォードシャー州で作られていた黒色陶器を改良したもので、今日まで会社の主力製品の一つとなっている。さらに1774年にはジャスパーウェアが開発され、1790年にジャスパーによるポートランドの壺が作製された。この壺は1878年にウェッジウッド社の商標に組み込まれ、コーポレートアイデンティティの重要な要素となっている。 ジョサイア(一世)の死後、その息子であるジョサイア二世が経営を引き継いだ。二世はボーンチャイナの製造を試みたが生産はすぐに中止され、1878年にボーンチャイナ生産は再開された。以降、三世から五世まで経営は世襲され、1895年にジョサイア・ウェッジウッド・アンド・サンズ(Josiah Wedgwood & Sons)として会社が法人化された。
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