エトルリア「王」ラルス・トルミウスとの戦いとは? わかりやすく解説

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エトルリア「王」ラルス・トルミウスとの戦い(紀元前438年-紀元前437年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:38 UTC 版)

ローマ・エトルリア戦争」の記事における「エトルリア「王」ラルス・トルミウスとの戦い(紀元前438年-紀元前437年)」の解説

詳細は「フィデナエの戦い (紀元前437年)」を参照 ウェイイの王ラルス・トルミウスは、自身エトルリア王と称していた、紀元前438年フィデナエは、ローマ反旗を翻して、ウェイイ同盟した。トルミウスはフィデナエ決心変わらないように、ローマ詰問のために派遣した3人の使節殺害した。ウェイイ・フィデナエ軍はローマ田園地帯略奪した紀元前437年ローママメルクス・アエミリウス・マメルキヌス独裁官選出した他方、トルミウスは、ファルスキとカペナの協力得たエトルリア4都市連合軍は、フィデナエ城外野営地設営した他方ローマ軍アニオ川ティベリス川合流地点野営地設営し、その防備強化したローマ直ぐにでも戦闘開始したかった。トルミウスはフィデナエ戦意疑ってはいたが、遠方から遠征してきたファルスキが即戦を望んだこともあり、戦意固めた戦闘が始まると、ローマ歩兵エトルリア歩兵圧倒したが、エトルリア騎兵激しく抵抗した。しかし、ローマ士官アウルス・コルネリウス・コッスス一騎打ちでトルミウスを倒すと、エトルリア連合軍総崩れとなったエトルリア兵は逃走したが、ウェイイ農村地帯まで追ってきたローマ軍虐殺された。

※この「エトルリア「王」ラルス・トルミウスとの戦い(紀元前438年-紀元前437年)」の解説は、「ローマ・エトルリア戦争」の解説の一部です。
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