ウル第3王朝の滅亡とイシン第1王朝の隆盛
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「イシン・ラルサ時代」の記事における「ウル第3王朝の滅亡とイシン第1王朝の隆盛」の解説
ウル第三王朝最後の王イビ・シンの治世において、王朝は西からのアムル人の侵入と東からのエラムの攻撃に曝され、その対応に追われた。さらに紀元前2022年頃、シュメール地方で大規模な飢饉が発生すると、王朝の弱体化は如何ともしがたい様相となった。イビ・シン王はウル第三王朝に仕えていたアムル人イシュビ・エッラに食料調達を命じて彼をイシン市に派遣したが、イシュビ・エッラは反旗を翻し、イシン市を拠点にウル第三王朝から独立した(イシン第1王朝)。弱体化したウル第三王朝にはこれを止める術はなく、イビ・シン王は彼の独立を承認せざるを得なかった。 紀元前2004年、エラム人がシュメールに侵入し、イビ・シン王は敗れエラムに連れ去られた。エラム人は南部メソポタミアの都市を破壊して支配下に置いた。このウル第三王朝の滅亡は『ウル滅亡哀歌』などの文学作品を通して語り継がれた。 しかしエラム人は南部メソポタミアから更に支配領域を拡大することはなかった。独立勢力を築いていたイシン王イシュビ・エッラは、エラム人の北上を食い止めることに成功し、逆に攻勢に出てエラム人をシュメールから排除することに成功したため、南部メソポタミアの大部分がイシンの支配下に入った。イシュビ・エッラ以降のイシンの歴代王は、ウル第三王朝の後継者たることを主張し、マラドやウルクなど混乱の中で独立していた周辺国を次々と制圧していった。
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