ウイグル民族との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 23:00 UTC 版)
「マフムード・カーシュガリー」の記事における「ウイグル民族との関係」の解説
中華人民共和国で民族政策が緩和され、少数民族の言語と文化の尊重が掲げられると、1980年代から1990年代にかけてムスリムの少数民族の間にも民族と歴史を模索する動きが見られるようになり、そうした運動の中でカーシュガリーが取り上げられた。1982年末から翌年にかけて、カシュガルから約45km南西のウパール(オパル)で彼の墓が「発見」された。研究者による現地での聞き取りや考古学的調査が行われた結果、これまではヘズレティ・モッラムの墓として知られていたウパールの墓廟が実はカーシュガリーの墓だと判明し、カーシュガリーは89歳の時に帰郷し、97歳の時に故郷で没したという。墓の発見は新疆ウイグル自治区の政府によって公式に承認され、新たな墓廟が建立されたが、「発見」された墓の真偽は疑問視されている。1980年代の新疆ウイグル自治区ではユースフ・ハーッス・ハージブなどの文化的偉人の発見が相次ぎ、墓の「発見」の背景にはカーシュガリーに自治区に居住するウイグル民族の英雄としての性格を持たせる意味があったと考えられている。1981年から1984年にかけて『テュルク語集成』の現代ウイグル語版が出版され、1994年にはウイグル族の作家によってカーシュガリーの生涯を題材とする歴史小説が発表された。
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