ウイグル語文書から見るウイグリスタン状勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 06:54 UTC 版)
「カラ・ホジョの戦い」の記事における「ウイグル語文書から見るウイグリスタン状勢」の解説
上述してきたようなウイグリスタンを巡る攻防の過程は、現存するウイグル語文書からも裏付けられる。例えば、1290年代〜1300年代頃に発行されたと見られるドゥアの名を権威の拠り所とする文書が現存しており、この文書の存在から13世紀末には既にドゥアの権威がウイグリスタンに浸透していたことが窺える。一方、この文書には「チャガタイ紋章」に代表されるチャガタイ家支配下の文書に特徴的な要素が欠けており、ウイグリスタンにおけるドゥアの権威は確固たるものではなかったことが示唆されるが、これは「13世紀末、ウイグリスタンはクビライとカイドゥ両方に属していた」とする『集史』の記述と合致する。 また、1320年代前半頃に発行されたと推測される「ヤリン文書」にはチャガタイ・ウルス支配下の文書の特徴が全く見られないが、これも「エセンブカ・アユルバルワダ戦争」によってウイグリスタンからチャガタイ家勢力が後退した史実と合致する。しかし、1320年代後半以後に発行されたとみられるウイグル語文書は形式の統一化が見られ、「チャガタイ紋章」も共通して見られるようになる。松井太は現存するウイグル語文書の内容から、チャガタイ家によるウイグリスタン支配はドゥア時代(13世紀末〜14世紀初頭)に既に始まっていた可能性を指摘しつつ、実効的支配はケベク(1320年代在位)の治世に始まったものと推測する。
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